富山の戦国武将 知られざる神保家の活躍

富山の歴史シリーズです。富山の戦国武将というと、誰がイメージされるでしょうか?

佐々成政や前田利家は富山の武将とは言えないし、おそらく多くの方が誰も思いつかないのではないでしょうか?

他県では戦にあけくれていたけど、越中(富山)ではみんな田んぼを耕していた?

そんなわけないです!富山もしっかり戦国時代を経験していました!

その中でも、実は富山には、「神保(じんぼう)」という立派な戦国武将の一族がいます!

しかも日本の歴史に影響を与えるほど活躍した戦国武将もいます!!

ということで、今回は富山ゆかりの戦国武将をご紹介します。

応仁の乱のきっかけをつくった?神保長誠

応仁の乱といえば、室町時代の後半から約11年にわたって敵味方が入り乱れて戦ったカオスな内乱で、戦国時代の始まりと言われています。

実は、この応仁の乱のきっかけをつくったのが、神保長誠(じんぼう ながのぶ)です。

神保長誠は、越中を拠点に活動した富山の武将です。

当時の室町時代後期ではお世継ぎ問題が色々な家で起きていました。

お世継ぎとは、家督を誰が継ぐのか、別の言い方だと一族の当主に誰がなるかということです。

現当主が後継者をしっかりと指名していたり、一族がまとまっていればお世継ぎ問題にはならないのですが、現当主が後継者をはっきりと決めなかったり、途中で後継者を変えたりすると、たいがいお世継ぎ問題に発展します。

一族がまっぷたつに分かれての内乱になったりします。

現代で言うと、次に誰が社長になるか副会長派と専務派でもめるという感じですね。

応仁の乱は、このお世継ぎ問題から始まっています。

当時、畠山家は河内(大阪)・紀伊(和歌山)・越中(富山)などを治める有力守護大名でした。

この畠山家にお世継ぎ問題が発生し、

次の当主の座をかけて、畠山政長(はたけやま まさなが)と畠山義就(はたけやま よしひろ)が激しく争いました。

この2人は従兄関係です。

神保長誠は、畠山政長側につきました。

神保長誠の活躍もあり、畠山政長は畠山家の家督を相続することができました。

さらに、畠山政長は室町幕府で出世し、管領になりました。

管領とは、将軍を補佐する役職で、幕府で将軍の次に偉いNo2の役職です。

さぞかし栄華をほこったことでしょう。

しかし、この状態が長くは続きませんでした。

ライバルの畠山義就が山名宗全(やまな そうぜん)と組んで、畠山政長を管領のポジションから蹴落とします。

反撃したい畠山政長は、山名宗全のライバルである細川勝元と組みます。

そして、神保長誠が、京都上御霊社において挙兵を強く薦めます。

進言に従い畠山政長は兵を起こし、畠山義就軍 VS 畠山政長軍の上御霊神社の戦いが始まます。

この戦いが応仁の乱の始まりとされています。

つまり、神保長誠が挙兵を強く薦めたことで、応仁の乱が始まったのです。

応仁の乱のきっかけは、神保長誠の進言といっていいんじゃないでしょうか?!

富山の武将である神保長誠の行動が歴史に影響を与えるってすごいことですね。

伊達政宗を恨む 神保相茂

越中国神保氏の同族である神保相茂(じんぼう すけしげ)は、伊達政宗を恨んだことでしょう。

なぜなら、味方である伊達政宗軍から鉄砲を撃たれて軍は壊滅、自らも討ち死にしたのですから。

神保相茂は、越中国の神保長誠の子孫で、大和の国のごくごく一部を治めていました。

関ヶ原の戦いに際して東軍(徳川側)についたことで、その後も徳川側として戦っています。

大坂夏の陣に徳川側として参戦しました。(大阪夏の陣は、徳川家対豊臣家の戦い。)

神保相茂とその軍は、兵は少ないながらも前線で敵と勇敢に戦います。

しかし多勢に無勢、徐々に押されていったん退却します。

しかし敵も同時に追ってきます。

後ろに控えているのは、味方の大軍である伊達軍。

あそこまで行けば助かる!と思ったのもつかのま、

うてー!!

味方である伊達軍から鉄砲が!

味方から鉄砲を撃たれて軍は壊滅、神保相茂も討ち死します。

神保相茂軍300人は全滅。大虐殺です。

当然、遺族は伊達側に猛抗議します。

しかし、伊達政宗からは、「敵が入り混じった状態だから撃った。これが伊達軍のやり方だ」と開き直りのような反論。

しかし、小大名である神保家と大大名の伊達家の力の差は歴然。

伊達政宗は罪に問われませんでした。

神保の遺族は伊達家をさぞかし恨んだことでしょう。

現代に名を遺す 神保長治

神保家は東京の町の名前の由来になっています。

そう!書店街として有名な東京の神保町です。

神保長治は、越中国の神保長誠の子孫と言われていて、江戸幕府に仕えた旗本です。

神保長治が現在の神保町の辺りに、大きな屋敷を構え、屋敷の小路が「神保小路」と呼ばれていました。

それが由来で、その辺り一帯が神保町と名付けられることになりました。

東京の町の由来になるなんて嬉しいですね!

まとめ

今回は富山ゆかりの戦国武将である神保家をご紹介しました。

神保家は有名ではありませんが、少しだけ歴史に登場したのが分かってもらえたと思います。

富山はあまり歴史の表舞台には出てこないで、少しでも出てきたらすごいことです。

富山の武将に興味が出てきたら、是非調べてみてください。

この記事を書いた人

よぴぞう

子育て、節約を楽しんでいます。富山を愛しています。富山育ち→千葉の学校→バックパックでケチケチ海外旅行→富山にUターン就職→アメリカ駐在→再び富山にUターン→結婚→子供誕生。「おもしろきこともなき世を面白く」の精神で、子育てや節約や富山の情報を発信していきます。