【木曽義仲(源義仲)と巴御前】 800年たっても愛される伝説の武将

富山の歴史シリーズです。牛にたいまつをつけた戦術で敵を倒した、という戦はご存知でしょうか。

その戦は、富山県と石川県の境の倶利伽羅峠(くりからとうげ)で行われたため、倶利伽羅峠の戦いと呼ばれています。

勝利した軍の大将は源氏の木曽義仲(きそ よしなか)です。源義仲(みなもとの よしなか)とも呼ばれています。

今回は一部の富山県民に熱狂的なファンを持つ木曽義仲について、パートナーの巴御前(ともえごぜん)と合わせてご紹介します。

木曽義仲(源義仲)ゆかりの地は?

平安時代末期の平氏が政治の実権を握っている時代に、信濃国木曽谷(長野県木曽群木曽町)で育ちました。

木曽義仲の名前は、木曽谷の地名がゆらいとなっています。

父親は義仲が誕生後、親族の家督争いで討たれてしまったため、中原兼遠(なかはらの かねとお)という人物によって教育されました。

そのさいに中原兼遠の元で一緒に育ったのが、その後生涯を共にする巴御前や今井兼平(いまい かねひら)です。

木曽義仲は平氏討伐の挙兵後、平氏に戦いで勝利しながら越後国(新潟)に入り、越中国(富山)での倶利伽羅峠の大勝により、北陸を制圧します。

同時期に生きた源頼朝が鎌倉を拠点にしたのに対して、木曽義仲は越後・北陸を拠点にします。

その後、京に入って栄華を極めますが、最後は源頼朝との戦いに敗北して近江国粟津(滋賀県大津市)で没します。

巴御前は平氏討伐の挙兵から木曽義仲の最後の戦いまでずっと付き従っています。

木曽義仲の妻は巴御前ではない?

巴御前は、幼少より木曽義仲と共に育ち、武芸に秀でた怪力の女性といわれています。

怪力伝説の一つとして、巴御前が戦い中で両脇に敵の首を挟んて締めたら、敵の頭がもげたというものがあります。にわかには信じがたいですが、それぐらい怪力ってことですね。

また、巴御前は木曽義仲の妻ではない、と言われています。

木曽義仲の側室かつ、義仲に仕える女武者の家来でした。

というのも、木曽義仲が巴御前に向かって、「信濃の妻に再び会えないのが心残りだ」と言っているからです。

巴御前が木曽義仲の妻だったら、そんなこと言わないですよね。

といっても、木曽義仲が巴御前は幼いころから一緒に育ち、ずっと戦いを共にしています。

晩年には、戦いに敗れて後がない木曽義仲から、

「自分はここで討ち死にする覚悟だけど、女のお前は逃げてくれ」(お前だけでも生きてくれ)

と、巴御前をなんとか生き延びさせようとしています。

木曽義仲が巴御前はこれは愛情がないと出てこないセリフですよね。

巴御前は「最後までお供します」(一緒に討ち死にします)という態度でしたが、木曽義仲の再三にわたる説得により、最後はなくなく戦場を離れました。

お互いに思いやっているよい関係性が見えてきます。

また諸説ありますが、二人には子どもができています。

木曽義仲と巴御前は夫婦ではありませんが、幼馴染であり、戦友であり、よきパートナーだったといえます。

木曽義仲と牛 倶利伽羅峠の戦い

話を戻します。

木曽義仲は平氏討伐の挙兵後、北陸地方へ勢力を広げます。

北陸の地を義仲に占領されてはならないと思った平氏は、木曽義仲へ討伐軍を京より送り込みます。

大将を平維盛(たいらの これもり)に、その軍勢なんと十万。

京より越前、加賀と連戦連勝で勝ち進める平維盛軍と、守る木曽義仲軍が越中で激突します

前哨戦 今井兼平の般若野の戦い

般若野の戦い(はんにゃののたたかい)は、越中国の礪波郡般若野(富山県高岡市~砺波市)での戦いです。

木曽義仲の軍からは先方隊として今井兼平が出陣します。

今井兼平は、中原兼遠の子どもで、巴御前の兄です。木曽義仲と一緒に育った幼馴染です。

今井兼平は富山県白鳥城(富山市呉羽町)に布陣して、平氏軍を待ちます。

平氏軍の先方隊は、加賀から倶利伽羅峠を超えて般若野にやってきます。そして般若野で小休憩します。

それを見て今井兼平は、奇襲を企てます。こっそりと敵に近づいて夜襲をしかけます。

長い旅路で疲れていたのか、勝ち戦で油断していたのか、平氏軍は今井兼平軍に打ち破られます。

そして平氏軍は倶利伽羅峠まで退却します。

一方勝った今井兼平は、木曽義仲や巴御前と合流し、決戦場である倶利伽羅峠へ向かいます。

倶利伽羅峠への道中 弓の清水

木曽義仲軍が倶利伽羅峠へ向かう道中、兵が喉の渇きをうったえます。

そこで、木曽義仲が水の源泉がありそうなところに立ち、

「私が平家を滅ぼすことができるなら、泉よ湧き出でよ」

といって、弓を射たところ、清き水が湧き出てきました。

兵は水を飲んで喜び、士気が大いに上がって、平氏との戦に勝てるという自信を持ったという伝説があります。

この場所が、弓の清水という名所になっています。

弓の清水は、湧き水で環境庁認定の「平成の名水百選」に選ばれています。

倶利伽羅峠の戦い

倶利伽羅峠は越中(富山)と加賀(石川)の境にあります。

平氏軍は7万の兵士からなる本隊を砺波山に配置して、木曽義仲軍を迎え撃つ体制を整えます。

砺波山に進出した3万の兵士からなる木曽義仲軍は、平氏軍に戦いをしかけます。この戦いは小競り合いで終わりました。

しかし、実はこの戦いは木曽義仲軍の陽動で、この戦の最中に、軍の一部を敵の後ろ側にこっそり回り込ませていました。

回り込んだ軍は、砺波山の地形を利用し、夜まで敵に気づかれることなく身を隠しました。

夜になると、木曽義仲軍と後ろに回った軍が一斉に平氏軍に襲い掛かります。

闇夜で奇襲を受けた平氏軍は、大混乱し、武器もとらず敵のいない方向へ雪崩をうって逃げます。

しかしそこは崖。次々に崖に落ちていきます。

崖と分かっていても、次々に後ろから逃げてくる味方に突き落とされて、崖に落ちる状況でした。

まるで地獄のありさま。そのためこの場所は地獄谷と呼ばれています。

ここで木曽義仲軍がとった戦術は、数百頭の牛の角にたいまつをつけて平氏軍に突っ込ませるというものでした。

「火牛の計」と呼ばれます。

人と戦うならまだしも、火が付いた牛が突っ込んできたら恐怖で逃げるしかないですね。

もっともこの話は、創作ではないかとも言われています。

この戦いに巴御前も大将として参戦しています。

さて、大敗北をきっした平氏軍は、さんざんたる有様で京へ逃げかえります。

一方で、大勝利を収めた木曽義仲軍はその勢いのまま京に向かって勝ちすすめます。

当時は京が日本の都なので、京を制圧することは天下人になることと似ています。

悲しい再会 斎藤実盛

木曽義仲軍が京に向かう道中、平氏軍の武将が立ちはだかります。

木曽義仲軍は、激戦のすえ、その武将を討ち取ります。

討ち死にした武将をみると、高齢で髪を塗料で黒く染めあげていました。

木曽義仲は、その武将を見てその武将の髪を付近の池で洗わせます。

すると黒い髪がするすると白髪に変わっていきました。

そのとき、木曽義仲は、はっとしました。

この武将は、幼少の木曽義仲を命を助けた恩人である斎藤実盛だと。

高齢の斎藤実盛は髪を黒く染め、討ち死に覚悟で戦に挑んだのでした。

自分の恩人を討ち取ってしまった木曽義仲は、人目もはばからず泣きました。

木曽義仲が恩を忘れない、熱い男ということが分かります。

それでも平氏討伐のため木曽義仲は京に向かい進撃します。

朝日将軍 木曽義仲

木曽義仲軍が来ると聞いた平氏軍は、京で防戦することなく京を離れて西に逃げます。平氏の都落ちです。

そして木曽義仲がどうどうと京に入り、京を制圧します。

このとき平氏の当時の上皇から、「朝日将軍」という名誉な称号をもらいます。

しかし最初は、上皇に喜んで迎え入れられた木曽義仲ですが、徐々に疎んじられます。

というのも、木曽義仲は田舎で育ったため、京の都の特殊な文化を理解していなかったからです。

皇位継承問題に口を出したり、京の都の治安を回復できなかったりと失態をしてしまいます。

どんどんと天皇家の信頼を失う木曽義仲。

一方で、一流の政治家である源頼朝は、鎌倉にいながらにして天皇家の信頼を獲得していきます。

そして木曽義仲の横柄さに耐えかねた上皇から、源頼朝を討てと命令がでます。

木曽義仲が天下人であったのはわずか数か月だけでした。

木曽義仲の最後

鎌倉から木曽義仲討伐のために大軍が送られました。

しかも大将は、戦の天才源義経(みなもとの よしつね)です。

京に迎え撃つ準備をしますが上皇から敵とみなされた木曽義仲のもとに兵が集まりません。

そして京の宇治川にて源義経軍と戦いますが、あえなく敗北します。

ここで幼少より一緒だった巴御前とは生涯の別れをします。巴御前はその後信濃(長野)に行き、一生を終えたそうです。

一方、木曽義仲は北陸へ逃げようとしますが、源義経軍が追ってきて、仲間がどんどんと討たれていきます。

残るは、木曽義仲と、幼馴染で親友の今井兼平の2騎のみ。

さすがの木曽義仲も死ぬ覚悟を決めます。

今井兼平より「武将は最後が大事です。敵を食い止めますので自害してください」と言われ、木曽義仲は森のほうへ向かいます。

しかし、田んぼに馬の足を取られた木曽義仲は、敵の放った矢を頭にうけて討ち死にします。

それを見た今井兼平は、「もはや生きる意味なし。武将の最後とはこうあるべきだ」と、口の中に刀を入れ、馬から飛び降り、自分の喉を貫いて、自害します。

こうして、木曽義仲は今井兼平とともに討ち死にし、一生を終えるのでした。

栄枯盛衰

平氏が繁栄をして衰退し、木曽義仲が栄え衰退したあと、今度は源義経の時代がきます。

しかし、兄である源頼朝より疎んじられ、源義経は衰退します。

そして源頼朝が天下を統一します。

その源の一族も、源頼朝の死後、北条家に実権を握られるのです。

室町後期は、栄えたり衰えたりが繰り返される栄枯盛衰の世でした。

源平火牛まつり

富山県小矢部市で源平火牛まつりが7月に開催されています。

木曾義仲が用いた「火牛の計」にちなんで、たいまつを付けた藁でできた巨大な牛を引いてタイムを競います。

800年もの前の出来事が祭りになっています。

それだけ「火牛の計」は人々を魅了し、木曽義仲は人々に愛されているのだと思います。

まとめ

今回は一部の富山県民に人気の高い木曽義仲について、パートナーの巴御前と合わせてご紹介しました。

実は、松尾芭蕉や芥川龍之介も木曽義仲の熱狂的なファンです。

無骨で戦は強いけど、不器用で政治力がないという典型的な戦闘タイプの武者ですね。

しかし木曽義仲に生涯付き従うものもいて、800年たった今も愛されているキャラクターというのは、特筆すべきことです。

また、巴御前との最後の別れでは、パートナーとしての絆の深さが分かりますね。

木曽義仲と巴御前を大河ドラマにという話があるそうです。その際は是非見てみたいと思います。

この記事を書いた人

よぴぞう

子育て、節約を楽しんでいます。富山を愛しています。富山育ち→千葉の学校→バックパックでケチケチ海外旅行→富山にUターン就職→アメリカ駐在→再び富山にUターン→結婚→子供誕生。「おもしろきこともなき世を面白く」の精神で、子育てや節約や富山の情報を発信していきます。